怪物は夢を見る

雑多な思考と浮遊旅行

僕は作家になりたかった。

僕は作家になりたかった。

…なりたいと思っていた。昔から本を読むのが好きだし、文章を書くことも好きだった。 自分の本なんか出せてしまったら、きっと一日中踊って、そのうちはにかみながら本屋に入るのだろう。

でも、僕はあまり話を長くは書けない。
技量がないだの根気がないだの言われたら否定はできない。というか、それな!という気持ちさえある。自覚はあるのだ。

けれども、やめられない。中途半端な中毒症状みたいに、僕は書き続けている。

就職。

この二文字が急に現実味を帯びてちらつき始めた頃、僕はふと、本気で作家になりたいのかについて考えた。というか、考えさせられた。

現時点での技量とか実績とか抜きにして、僕は本気で作家という職業に就きたいのだろうか。

答えは非常に曖昧で、何日探したって霧がかっていて輪郭さえはっきりしない。

じゃあ、そもそもなんで作家になりたかったんだっけ。

本が好きだからだっけ。書くのが好きだからだっけ。褒められたからだっけ…?

僕は、川下から源流を辿るようにゆっくりと思い返し始めた。現在、高校、中学…

『作家は0から1を創り出すのではなく、100から1を創り出す。』

ふと、脳裏をよぎった言葉に僕はハッとした。

それは、当時、いじめられていた僕にとって魔法の言葉であった。逃げ道であった。

転校生であった僕は当時いじめられていて、とても苦しい思いをしていた。
苦しくて苦しくて、一人干からびた井戸の底に置き去りにされてしまったような孤独が僕の心を蝕んだ。
深い井戸の底から綺麗な青空を眺めてはため息をつき、時折投げ込まれるものに怯えていた。そうして、気づいたら手を伸ばすことも、出ることも諦めていた。

そんな時、僕はあの魔法の言葉に出会って閃いた。

ーーそうだ、僕は作家になっていつかこのことを書いてやる。そのためにはいっぱいこの辛さを体験するんだ。

悲しいこと、上手くいかないことがあれば、作家になるために必要だから受け入れようと考えるようにし、向けられた悪意にはこいつはネタになりそうだと甘んじて受け入れられた。

未熟な反骨精神からであったが、これが大いに役立ったのだ。そのうちそう考える癖がつき、やがて自分を守る一つのクッションとなった。

つらいことをつらいと受け止めるけど、ちょっとひねくれてるからダメージ半減。みたいな。 最初はそんなに上手くいかないけど、でも無理やりそう思い込んだ。そうやって騙していくうちに、僕はすっかりその気になって、ダメージもあまり受けなくなった。

そのうち、いじめが引き潮になると今度は100をつくるため、何かに挑戦するようになっていった。

失敗してもネタになる。なら、やるっきゃないじゃん。

だなんて、軽く考えて、とりあえずやってみた。

やってみなきゃわからないし。文章に臨場感は必要である。

という勝手な思い込みで、「挑戦」に対するハードルが下がったのだと思う。

もちろん、その先々で痛い目にあったり、苦しくなることもあったが、これも全て作家になるために必要なことなのだ。と、クッションを敷いて、そこへ全力ダイヴした。


ーーあぁ、そうか。

僕は、不揃いな自分に苦笑して、使い古されたクッションを抱いた。


僕は作家になりたかった。


けれども書店に僕の本が並ぶことはないのだろう。










VRが全面的に流行らないのは何故だろう。

よく映画や漫画でヴァーチャル世界が主体の設定の話を見かける。そういう時、だいたい生活の基盤がヴァーチャル世界に成り立っていて、任意のアバターで生活を営んでいる。

  例えを挙げるなら、細田守の『サマーウォーズ』とか川原礫の『アクセル・ワールド』、(アバター使ってないけど『マトリックス』も近いかな。)のイメージだ。

 実際、僕はこういう世界観が近未来的ですげぇ!って引き込まれたタイプなんだけど、ふと気になったことがある。

 

 VRやARの技術が発達してきたのに、どうしてそれが生活にもっと溶け込んでこないんだろう?

 

 技術がそこまで発達してないとか想像世界の話だろとかそういうことで一応収まりがつく話であるのかも知れないが、ちょっと考えてみた。

 

1.宗教とヴァーチャルリアリティ

 

落合陽一さんの著書『超AI時代の生存戦略 シンギュラリティに備える34のリスト』に、「貧弱のヴァーチャルリアリティ」という考えが記されている。

「ここでいう貧弱のヴァーチャルリアリティとは、自らが主体的に決定できない構造的弱者が、希望を持っていくための精神的支柱のことである。」と定義し、具体例として、宗教信仰を挙げている。

 宗教といっても様々な教えがあるが、ざっくりいって「今、頑張れば『来世(あるいはこの先)』良いことあるよ。」って感じで、これを信じてまた辛い現実も頑張ろってなる。そういう意味で宗教信仰は精神的支柱になっている。

 これと同様に、例え現実が辛くてもヴァーチャルリアリティの中ならLv.100の騎士であったり、人気者であったりとすれば逃げ場(自尊心を守る場)があるし、どうにか頑張るか。と思えるわけである。

 

 

さて、ここでまた僕は疑問に思った。

 

宗教と酷似しているのに、何故VRは全面的に流行らないのだろう…?

 

宗教と酷似してるなら、VRにどっぷりハマるやつがもっと出てきて良いはずだし、生活がもっとVR寄りになっても良いと思う。でも、現状は、都会の繁華街にちょっとVRゲームの施設ができたり、気になる人がVRを買ったり、イベントでちょこっと体験する程度であるように思う。この差はなんだろう。

 

2.報酬とリンク

 

僕は、VRと現実は明確な境界線があるからだと考える。

何を当たり前のことを!!!と言われそうだが、ちょっと待ってほしい。

宗教と現実にも明確な境界線がある。神は見えないし、死後の世界なんて本当は分からないじゃないか。

 

じゃあ、何が違うか。

 

 

報酬である。

 

 

もっと言えば、報酬が現実とリンクするかしないかだと考える。

これは、宗教で言えば、「今頑張れば、『来世(あるいはこの先)』に良いことがある。」から頑張れるわけなのだが、この頑張りが『来世(あるいはこの先)』につながる(現実とのリンク感)、それも自分にとって良いこと(報酬)の二つがある。

一方、VRでは、例え自分がLv.100の騎士であろうが人気者であろうが、現実にはさして影響がない。

 

VRで魔王を倒そうが貯金は増えないし、美人の娘は嫁に来ない。いくら人気者になろうが、自分のヴィジュアルは変えられない。

 

 VRで得られた報酬は、VRでしか発散できない。

このように報酬が現実にリンクしないことが宗教と違って、VRが全面的に流行らない要因の一つだと考える。

 

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以上がしがない学生の僕が考えた要因である。

いろんな考えの人がいると思うが、僕のこの乾いたスポンジのような頭に何か知恵を与えようとしてくれる人がいたら嬉しい。僕はまだまだ学び足りない。

 

あ、コメントしてくれたら泣いて喜びます。

あ、ついでにTwitterもしてます。

 

 



 

 

 

 

第七官界彷徨 尾崎翠

   「人間にも第六感がそなはつてゐるんだ。まちがひなくそなはつてゐるんだ。人間の第六感は、終始ははたらかないにしろ、ひとつの特殊な場合にはたちまちにはたらきだすんだ。それは人間が恋愛をしてゐる場合なんだ。 」

 

 恋。特に対人間の恋をすると自分で自分を計っていた定規みたいなものがてんで役に立たなくなってくる。

  世界がワントーン明るく見えたり、いつもの格好がダサく見えたり、気づけば視線を送ってたり、些細なことで心がぎゅんとしたり…。

 急に生活の勝手が変わるからこまったものだ。でも、困っているのになんだか嬉しくてたまらないものだったりする。 こうなるともうてんでダメだ。敵わない。

 

  …もしかしたらこれは、この少女が言う 『第六感』が働くせいなのかもしれない。 お手上だ。身を任せてしまえ。全ては第六感、お前のせいなんだ、と。